再びの感染増加

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再びの急激な感染増加

増加する新規感染者 

 新型コロナウィルスの新規感染者が、東京都では増えている。7/23㈭には、初の300人台の366人の新規感染者が確認された。緊急事態宣言の自粛明けから、1日の感染者の最少人数が2人であったのが嘘かのような、感染状況だ。改めて、このウィルスの感染力の強さに驚いてしまう。しかし、緊急事態宣言が出された直前直後や、宣言下での自粛要請期間中と、1日当たりの過去最高の新規感染者を連続して更新している今とで、明らかに、政治家の発言、テレビや新聞等の報道の仕方、国民全体の雰囲気が異なる。新規感染者の数字だけ見れば、今の方が危険度が高いと思えるが、世の中の動きはそうではないように見える。Go to トラベルキャンペーンは、さすがに東京都は除外されたが、延期されることなく実施されている。プロ野球も5000人を上限として、観客を観戦席に向かい入れている。観光地の施設や店舗、ホテル、旅館、球場施設は、当然、感染拡大防止対策は施していると思うが、個人的な意見として、この感染者が増加している状況下で多く人が安心して出かけられるのか?という懸念はある。しかし、僕自身も含めて、危機感と言う点では、緊急事態宣言直前直後と比べると、薄れているのは事実だ。正直、今の状況をどう捉えればよいのか個人的には混乱している。

自粛という我慢

数ヶ月も我慢しているのに、それ以上か?

 3月の臨時休校から始まり、4月・5月の緊急事態宣言と自粛要請、「ステイホーム」のアピールの下、我慢を余儀なくされた。6月も不要不急の用事以外は、外出は控えるようにと言われたわけだがら、実質、4ヶ月の我慢をしていたわけである。本来、人間は活動的で、色々な場所に行き、色々なものを見て、色々な人と話し、その場その場の雰囲気を目や耳や肌で感じ、頭で考え、学ぶものだ。外に出たいと思うのは本能だ。食事中、話もせずに、黙々と食べる。これの何が楽しいの?外出は仕事だけが許され、自宅と職場の往復のみ。そんなのは、人間のやることではない。これを何ヶ月も、何年も続けていたら、人間が人間でなくなる。それは確かだと思う。早く、特効薬やワクチンが開発され、コロナに罹ってしまっても、「災難だったね。」の一言で済むような世の中になって欲しい。正直、人間の我慢も、結構、限界に近いと思うし、これ以上の我慢は、歪んだ社会を形成しかねないとも考えられる。

我慢が心を歪めてしまうことも

 緊急事態宣言下で、「自粛警察」という言葉が良く耳にされた。極端であるが、管理下に置かれた状況では、良い社会にするためのルールの方が社会の現状より重んじられ、ルールを守ることが正義で、守らないことが悪だと考えてしまう方向に流れやすいのは、理解できる。国が危機的状況で国民をある程度の管理下に置くのはわかる。そして、国民を統制し、国民一丸になり危機を脱しようとするのもわかる。そのためにルールが重く尊重されるのもわかる。恐らくだが、我慢や辛抱が、人の心に「自分はきちんと守っている」と自負を生み、それが人の心を狭くし、他人の行動の瑕疵やルール違反に目が行き、許せなくなるのだろう。気持ちは十分わかるし、自粛警察ではないが、そういう状況に自分だってなったときがある。それが人間というものでもある。だが、行き過ぎてはならない。逆に、この感染状況の中で、何も注意しないわけにもいかない。自分が感染しないように、他人に感染しないように、出来る限りのことをするのは当然のことである。これを我慢だと思ってはいけない。新型コロナウィルスについて正しく学び、情報を共有していくように努めるのは、自分や周囲を守るための手段なのだ。只、生活の様相が変わってしまったのも事実で、それに対応し、その中で楽しみを見つけ、楽しいことを進んで行うことに、エネルギーを注ぐべきだと思う。人間、楽しみがないと心がダメになってしまうし、仕事だけでは心が持たない。仕事に集中し、一生懸命するためにも、仕事以外の何かに、没頭する時間は必要だ。楽しみや娯楽がない生活は、それはもはや人間の生活ではない。

戦時下との類似

自粛という我慢の日常と政治

 ある記事を読んだのだが、現在の状況は、第2次世界大戦前と似ているという。第2次世界大戦の原因の一つは、世界恐慌だ。世界各国が経済的危機を迎え、それを脱するため植民地を持つ国は、自国の経済を優先させて、植民地から富を吸い上げ、植民地を持たない国には、他国に侵略し、植民地化したわけである。要は、自国だけの経済を考えた結果、対戦が起こったわけである。日本では「欲しがりません勝つまでは。」「贅沢は敵だ。」「月月火水木金金」などの言葉がスローガン的に扱われたわけであるが、どれも国民に自粛を求め、個人の富を国に献上するように言っているのだ。大政翼賛会なる共産党を除く唯一政党である大政権与党の下、自粛という国民の日常生活が、政治に結び付き、上記のことを国が国民に強いたわけである。僕は当時を生きたわけではないが、自粛と我慢と辛抱を国民は受け入れ、協力し、知らぬ間に日常に政治が入り込み、個人の意見や自由や多様性が失われていったのだと思う。勿論、異論を唱える人もいたが、「非国民」という言葉で断罪されたわけである。ファシズムが浸透してしまった結果、我慢することが美徳と皆が思うようになり、それが正義となり、多様性を認めない社会になってしまったのを誰も止められなかったのだろう。全体の空気感というのはそれだけ強力で強大なのは、今の日本を見ていても理解はできる。まして、戦時下という国の存亡の危機ならば、国民一体とならざるを得ないわけであるのだから、その全体主義から逃れるのは不可能だったことは容易に想像できる。苦い経験と言葉で片付けられない過去があったから、現在の日本政府に強制力をあまり持たせないように憲法で制限をしたわけである。そういう意味では、僕は、政府が大きな強制力を持たないことは、日本国民の性質を踏まえると賛成である。たとえ、コロナ禍の中でも、政府が強権を発動しない方が望ましいと思っている。

間違った方向に行っても、修正する力だけは失くしたくない。

 今の状況は、戦前・戦時下に確かに似ている部分はある。さすがに、世界大戦は起きないと思うが、経済的打撃は、世界恐慌以上になるかもしれない。いや、世界恐慌よりひどい状況だという声も聞く。今後、どうなるのかもわからない部分はある。このまま、自粛を続けたのでは経済が持たないのは、明らかだ。お金を使い、産み出して、生産性を高めて行くのが資本主義だし、労働の対価として、お金を貰い、それを使うのが生活だ。外国との交流・交易も、縮小したままで、ずっといるわけにはいかない。経済を動かしていく必要がある。只、その判断を政治が下すわけであるが、妥当なラインがどこにあるのかなんて、誰にもわからないだろう。わからない中で、物事を進めて行くわけである。過去を遡っても、3月の臨時休校、4月の緊急事態宣言、5月の緊急事態宣言の解除、7月のGo Toトラベルキャンペーン、その他経済的救済策、正しかったか、間違っていたかなんて、まだ結論が出ていない。勿論、これらのことを検証していく必要はある。只、未経験の中で、命を守り、経済を守り、国民を守るために、政治は行われ、国民は動いている。その渦中では、迷うのは仕方ないし、間違った方向に行く可能性もある。しかし、もし、間違った方向に行っても、修正する力だけは、失わないでもらいたい。それは、僕、個人にも言えることで、正しく学び、分からない中でも、よく考えて行動したい。しかし、今の状況をどう捉えるのかさえ、まともにできない・・・。

 

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