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コロナ禍のGWに考えたこと

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コロナ禍のGWに考える指導方法

 今回の内容は、子供ではなく大人に読んで頂きたい。希望を持つには?結果を出すためには?ということを考えてみた文章である。

コロナ禍と政治

4都府県に出された緊急事態宣言 

 今年も去年に引き続き、コロナ禍のGWである。東京都、大阪府、京都府、兵庫県に緊急事態宣言が出され、政府や各都道府県の意向としては、国民に自粛を求めているわけである。しかし、あまりに自粛、自粛と内側に心が向き過ぎるのも良くないし、逆に開放的になり、警戒心を無くしてしまうのも問題である。政府としても、強行的な政策を憲法上、打ち出せないのが現状だか、僕個人の見解としては、いくら有事だからと言って、時の権力者が強権的に政治を進めて行くのは反対である。何故なら、一度、それを許してしまうと、国民の意見が蔑ろにされてしまう可能性が高いからだ。政府としては、お願い、要請に留まってしまい、国民のモラルに頼らざるを得ないわけであるが、協力を要請するなら、補償をすべきであると思う。問題は、この補償に不平等感を感じる国民が多いことだ。そして、その補償が必要なところに十分に届いていない、逆に補償が厚すぎる場合もあるのが、国民感情を逆撫でしてしまっているように思える。昨年の持続化給付金などの新型コロナウィルスに対する企業や個人への補償や補助金が、適正であったのか?というのは多くの国民が抱いていると思う。だからと言って、正解を言える者は一人も存在しないのは事実であろう。

今、政治家に求められるのは決断すること

 僕は、このような表現をしているが、政府批判をしているわけではない。誰もが経験したことのない災いの中で、そのとき、そのときでベスト又はベターと思える方策を政治家はするしかない。しかも、立場が違えばベストやベターと考える方向性も違ってくる。どんな政策を打ち出して、実行しても、国民全員が納得することはないし、どこからかは必ず批判は出てくる。経済を優先させれば、「経済より命が大切」という声が上がり、緊急事態宣言を出し自粛を要請すれば「経済が回らないと命を守れない」と声が上がる。どちらの声も正しい。正しいが、極端に傾くわけにはいかない。バランスを取りながら、その割合を状況に合わせて変化させていかなければならない。しかも、規制と緩和に国民が納得できる整合性と一貫性がなければならない。口で言うのは簡単だが、実際、これを国民生活への打撃を少ないものにしながら進めるのは至難の業だと思う。正直、今、行っている政策は、整合性と一貫性があるとは思えないのが、僕、個人の感想ではある。でも、今、政治家に求められるのは、一貫性と決断する勇気であり、今現在の評価ではないと言いたい。きちんとした評価は、コロナ禍が終わった5年後、10年後にされるのだろう。

こんな状況だからこそ、政治家は国民に向かって、希望を話すべき

 国民も不安や心配を抱き、大きな負荷を抱えているのが現状だ。今までの生活様式を大きく変えたし、これからも変えなければならないことが増えていくだろう。そんな国民から見れば、政治家は国民にばかり要求して、自分達は好き勝手やっていると見えてしまうのもわかる。全ての政治家が、私利私欲を優先させて、国民生活を蔑ろにしているわけではないが、一部にそのような者がいるのも事実だと思う。政治家が国民に寄り添っていないと思われてはいけない。国民に信用されなければ、国民のためのどんな政策も受け入れてもらえなくなる。そうならないためには、政治家は国民に向けて言葉を発する必要がある。最近のニュースを見ると、それぞれの政治家の思惑の中で、政治家同士が足を引っ張り合うような発言をし、国民の方を向いているのか?と疑問を抱くことが多い。コロナ禍で多忙であり、ストレスも抱え、大変なのは分かる。分かるが、国民の方を向いて、言葉を発して欲しい。毎日毎日、コメントをする必要はないが、国民に希望と勇気を与える言葉を政治家は発するべきである。それが、今、足りていないような気がする。

子供に希望を持ってもらうには?

叱責だけでなく、希望と勇気をもってもらうことに力を注ぎたい

 このことは、政治家だけでなく、大人が子供に対しても発する言葉や言動にも言えるだろう。自分のことを振り返っても、生徒に注意や𠮟責はするが、それと同じ、それ以上に、希望や勇気を与える言葉を発しているのだろうか?と考えてしまうときがある。悪いところがあるとそこを注意したくなる。これは教える側からすると、本能みたいな条件反射だ。只、問題なのは、その悪いところを相手が自分の欠点とか、直すべきところだと認識していないことが多いことだ。認識していれば、言葉を選び、方法論と理屈を示せば、何とか良い方向に進むことができる。しかし、相手が認識していないと、こちらが言いたいことが通じない。この対処は難しい。こちらの言いたいことを言ってしまうと、相手は不信感を持ち、信用してくれなくなる。お互いの信頼関係が無ければ、どんなことでも指導する、指導されることは成り立たない。理想は、言うべきタイミングが訪れるまで待ち、相手が話を聞いてくれる状態になったときに話すべきだと思うが、実際には、それを実行するのは難しい。だからこそ、注意や𠮟責も必要だし、大事なことであるが、それと同じか、それ以上に、希望と勇気を持ってもらうことに力を注ぐべきだと考えている。

努力するとは?

結果を出すためには?を伝えるには、そのタイミングが難しい。

 「努力は必ず報われる。」「夢は必ず叶う。」とかそんなことを子供に言う気は僕はない。報われない努力なんて、いくらでもあるし、夢なんて叶わないことの方が圧倒的に多い。これが現実だ。「努力とはなんぞや?」「努力するとはどういうことか?」まずは、ここを分かってもらうことが肝要だ。正直、ほとんどの小学生では、この部分は理解できない。中学生でも、理解できる割合は高くない。言われたことを目的意識や注意点もなく、ただ単に数や量や時間を費やしただけでは、報われる確率はそれ程高くない。一生懸命、エネルギーを注いだだけで、「頑張ったね。」と言って褒めるのも、結果が伴わなくて、「頑張ったのに残念だったね。次、頑張ろう。」と励ますのも、僕は間違っていると考えている。頑張ることだけで十分と満足していると、どうしても結果を伴わなくなってしまうからだ。結果と言うのは厳しいもので、現実の結果の方が、求めたい結果より低いことが多い。テストで100点を狙って、100点を取れるなんて、学力レベルが上がれば上がるほど、難しくなる。これが現実なのだ。だから、考えるべきは「結果を出すには、今の自分には何が足らなくて、何が必要で、具体的にどうすべきなのか?」なのだ。そして、考えたら、実行するのみであり、一生懸命、エネルギーをそこに費やすのは当然のことなのだ。自分のなりたい理想があり、それに向かいたいなら、寝ているだけではダメで、そうなるための最低限のことをしなければならない。そして、その過程で、喜びと成長を感じられるように自分を自分で洗脳することだ。自分で考えることが大切で、常に、成長のためのヒントを求め、取り入れてやってみるという柔軟性が必要だ。そして、努力には、長期的にコツコツして、徐々に改善していくものと、短期的に一気にやり、知識と理解を修得すべきものがあることも知ってもらえば有難い。毎日、コツコツ勉強して、知識を吸収する。これも大切である。分からないことがあれば、徹底的に理解するまで時間を忘れて納得するまで行う。これも大切だ。大人なら、これを分かってもらえるが、子供相手では、なかなか難しい。多分、これを小学生や中学生に理解させようとしても、彼らは拒否反応を示すだろう。それこそ、彼らが成長し、このことを理解できる状態になり、聞く耳を持ってくれたときに言ってこそ意味あるものになる。只、何度も言うが、そのタイミングが難しい。恐らくだが、自分が子供だった頃を思い出して、指導するのが一番なのだろうと思う。

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