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心技体
僕は、スポーツ観戦に技術を求めている。
僕は、高校野球を見ないが、プロ野球は見る。
僕は、スポーツが好きだ。特に、野球とボクシングが好きである。先日の井上尚哉選手の世界戦にも興奮した。見事な勝利であった。野球であるが、野球好きの人は、高校野球を好む人が多いが、僕はそこにはほとんど興味がない。甲子園の予選・本選、決勝でさえ、テレビ観戦することはほとんどない。でも、プロ野球やMLBの試合は、録画して見ている。僕は、高校野球を貶めるつもりは全くない。情熱を傾けて、若者が何かに取り組む姿は素晴らしいし、頼もしい。未来への希望を感じることができ、心躍る。そういう心情は充分に理解できる。理解できるが、録画をして見るまでに、僕の場合は至らない。
プロ野球観戦には、技術を見たい欲求がある。
では、何故、僕は高校野球を見ず、プロ野球をみるのだろう?自分なりに考えてみた。僕は、技術を見ているのだと思う。試合に勝つための技術、チームプレイの技術、投球や打撃、守備、走塁、送球の技術、そういう一般人にはできないプロならではの高等技術を見て、楽しんでいるのだと思う。高校野球にも、高い技術力がある選手もいるが、即、プロで通用する選手はほとんどいない。それは、当然のことだろう。高校生は、まだ発展途上であるし、これから大きく伸びる存在である。それに、プロの世界とアマチュアの世界のレベルが同じなら、プロの世界の価値はない。プロとは、商売だし、職業だ。お金が発生するもの対して、プロ選手が責任を負っている。責務の重さが違う。そこが大きな違いだと僕は思う。
厳しい世界だからこそ、技術が磨かれるのだろう。
自分の実績を積み上げることで、評価は上がり、給料も上がる。逆に、成績が下がれば、酷評され、給料もダウンする。厳しい世界であるが、才能に恵まれない者には酷な世界であるのも事実だが、自分の創意工夫や鍛錬次第で、這い上がれる世界でもある。でも、そんな世界に飛び込み、進んでいこうとするのは、茨の道であろう。勇気と度胸がないとできないと思う。才能だけでなく、自分をしっかり持つための精神力の強さ、思考の柔軟性、探求心、そして技術、心技体の全てが揃わないと結果を残すのは難しいと思う。
一般の世界でも心技体は必要だ。
技術の向上は慢心することで滞り、自信をもつことで大きく進展する。
一般人の世界でも、心技体は整えなければならない。健康で、仕事が勉強ができる身体でないと、技術は身に付かない。技術を身に付けるための体力がなければ話にならない。技術を身に付けることは、容易ではないが、試行錯誤し、失敗と成功を繰り返して、それを自分なりに精査し、また試行錯誤をすれば、時間が掛かっても必ず技術力は向上する。問題は、それを継続し、楽しめる精神的なスタミナがあるのか?ということだ。これが実は、一番厄介なことだと僕は思っている。人間、飽きずにひとつのことを続けるのは難しい。単調な練習や反復作業を真面目に取り組むのは至難の業だ。ましてや、人間は慢心してしまう。慢心すると、基本や根本的なことを蔑ろにしてしまう傾向がある。「自分なら大丈夫」と思いたい気持ちと油断が、技術の向上を妨げてしまう場合もあるが、「自分ならできる」と思うことで自信がつき、飛躍的に伸びる場合もある。その辺りの心のコントロールをするのは、僕は、全ての人間が不可能ではないのか?と思っているくらいだ。
どんな状態でも、己を戒めて研鑽することは困難だ。
又、自分が調子が悪いとき、結果が出ないとき、人は何とかしないといけないと思い、もがく。絶望せず、自暴自棄にならなければ、放っておいても、そんな状態でも気力を保ち、自己研鑽をするだろう。調子が良いとき、結果を伴っているとき、落とし穴が待っていると頭で分かっていても、心に隙を作らずにいるのは難しい。どんな状態でも、己を戒めて行動するのは不可能だと、僕は考えている。だから、調子に乗って、痛い目を見て、また、己を見直せば良いと思っている。実際、この年になっても、僕はこの繰り返しだ。だから、仕事でも、プライベートでも色々なことにチャレンジし、失敗している。その失敗の積み重ねで、現在があると言える。
失敗の繰り返しで分かったこと。
心は地位と環境が育ててくれる。
その中で分かったことは、「ある程度のレベルに技術が達していないと、自分の力が通用しない、自分が相手にされない、相手から信用・信頼されない。自分の地位を築けない、地位を守れない。相手に迷惑が掛かる。」ということである。だから、僕は自分のためだけでなく、仕事に関わる人(僕の場合は、生徒と保護者になるが)に信用・信頼をしてもらうため、また良いサービスを提供するため、自分で思う最低限のことはしているつもりだ。20代よりも30代、30代よりも40代の方が、仕事に対しての取り組み方は、真摯になったと思う。そういう風に人は、その立ち位置で心が成長することも分かった。「地位が人を作り、環境が人を育てる。」とい言葉がある通り、心は、環境や地位が育ててくれる。
ある程度の環境や地位を得るには技術の修得が必須。
ある程度の環境や地位に辿り着くには、技術がなくてはならない。技術を身に付けるに健康体でなければならない。又、高い地位にいて、自分が責任を負わなければならない環境にあれば、人は、自分のためにも、周囲のためにも、後進のためにも、自分の技術を更に磨き、伝えることもするようになる。技術を他人に伝えることは、実は非常に難しい。塾講師を生業としていると、それが痛いほど分かる。こちらの話をきちんと聞かず、間違った解釈をしてしまう生徒はいるものだが、そんな生徒に対して、正しい理解をしてもらうことは、労力と時間がかかる。難しいことを自分が理解して修得することも技術だが、相手にその技術を伝えることも、また技術なのだ。
技術を身に付けるにはまず体。技術が地位を上げ、地位が技術を上げる。
体は資本
この様に、技術を身に付け、自分が成長し、地位を築くと、更なる別の技術の必要性が見えてくる。そのためには、体力も必要だし、健康であることが大前提だ。だから、睡眠や食事、日常生活に意識を向けざるを得ない。流石に、食事の栄養素やカロリーまで調べないが、しっかり食べて、良く寝るようには心掛けている。そして、体力維持も気に掛けている。何が言いたいかと言うと、心技体は別々のものではなく、一体となり連動するものなのだ。ひとつでも欠ければ、全て崩れてしまう。でも、一番の根本は体だ。「体は資本」という言葉もあるが、体力のない人間が大成するのは難しいだろう。ここで言う体力は、筋力があるとか、身体能力が高いとかではなく、自分の気力を支えるだけの体のスタミナがあるかということだ。体がなければ、技も心も身に付かない。だからこそ、何かを達せしたいなら、日常生活を大切にすべきなのである。体をケアし、技術の修得に耐えられるものにするために、日々、健康的な生活を送ることは重要なことだ。ときには、体を休めることも必要だ。戦士にも休息はある。その休息で、リフレッシュして体力も気力も回復することも大切なことだ。
心技体の中で一番重要なのは体
心技体。どれも必要だか、基本の体がないと何もならない。実際、心身ともに疲れた中で、もうひと頑張りが必要なことはあるし、疲れたときに体力がないと知力も気力も発揮できない。塾講師という職業も、実際のところ、頭脳明晰であるには越したことはないが、知力よりも体力を必要とする。恐らく、ほとんどの職業で、一番必要なのは、短期間に力を発揮することではなく、長期的に安定的な力を発揮するのに必要な体力だと思う。