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大らかさ
今の世の中は、少し殺伐としている感じが…
今の世の中の風潮を見ると、殺伐とした印象を受けてしまいます。大らかさに欠けていると感じます。TV、新聞等の既存のマスコミは、どれも一律で同じ論調で、目立つ誰かをヒール役として作り上げ、ターゲットにした人物を酷評することで、自分達の側に正義があると言っているように、見えなくもありません。匿名性の高いSNSなどでは、より過激に人を中傷する言葉も窺えます。そこには、正義とか清廉潔白を求めたいと言う想いがあるのかもしれません。正義や清廉さは、とても大切なものです。それがあるから人間は、信念を抱き、行動出来るのです。だけど、そこだけを求めしまうと、他者を排斥してしまう危険性があると感じます。
報道の姿勢の難しさと漂う閉塞感
有名人のスキャンダルや事件の場合、悪と烙印を押すだけで、彼、彼女が何をしたのか?何が違法なのか?他の事件や他の人物がしたことと何が違うのか?と深く報道せず、自分が正しいという認識の下、自分達が作り上げたイメージの中だけで、情報を弄んでいるように思えます。勿論、番組や記事を面白いもの、刺激的なものにしたいのは分かります。視聴率と言うものが存在し、スポンサーのイメージや意向を重視せざるを得ない状況では、独自路線を貫くのは厳しいものがあるだろうことは想像できます。独自の発言は、世論の反発を買う可能性を含んでいるので、逆に、炎上商法を狙う輩もいたりしますが、自らブレーキを掛けたりして、番組の存続を図らなければならない苦労も理解できます。又、マスコミだけでなく、世間も「不謹慎」という言葉の元、自由な発想や、他の誰かが思い付かない様なアイデアを否定している雰囲気が漂っている様に感じます。所謂、閉塞感です。
湾岸戦争とムーミン
30年ほど前ですが、湾岸戦争のとき、NHKを始め、他の民放各局も、四六時中、湾岸戦争について報道していた中、テレビ東京だけは、「ムーミン」を再放送し、何と、視聴率20%越を叩き出しました。そのときのテレビ東京の幹部のコメントは「我々の作戦勝ちです。」というものでした。世間は、クレームを付けるのではなく、むしろ、笑っていた、許していた意見が多かった様に記憶しています。(私は、当時、高校3年生で、大笑いしましたが…。)世界的有事の最中にムーミンの再放送が20%越えをしてしまう日本国民全体に、多少なりとも問題はあると思いますが、その是非はともかくとして、こういう大らかな雰囲気が、今の日本に必要なのかもしれないと思います。
大らかさとは?それが、今、必要だと思う。
大らかさというのは、のんびり、ゆっくりしているということではありません。色々なものを受け入れる度量があるということだと、私は解釈しています。当たり前のことですが、世の中、良いものもあれば、悪いものもあります。薬も毒もあります。一人の人間を見ても、長所短所があります。長所はその人の利点ですが、短所は、その人の魅力でもあります。良い、悪いだけなく、良いものの中にも、改良点が、悪いもの中にもお手本があります。自分にとって、何が必要かを考え、良いものは手本とし、悪いものは、反面教師とし、自分で判断して、自分に必要なものを作り上げ、それを自分流にアレンジする能力が必要だと強く主張します。今の日本は、その辺りが少し欠けている様に感じます。「創意と工夫」これこそが、日本の最大の武器だったはずなのに、この大事なものが失われつつあると思えます。
創意工夫のエピソード
私は、スポーツが好きで、良くスポーツに関する本などに目を通します。その中から、「創意と工夫」に関するエピソードを採り上げましょう。
私の大尊敬する落合氏
落合博光氏の現役時代の活躍はご存じと思います。通算本塁打510本、通算打率.311、三冠王3回の超一流の選手でした。ある日、往年のロッテオリオンズのエース、サンデー兆治こと村田兆治投手(50歳を超えて140km/hオーバーのストレートを投げた超人、1995年に45歳でダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)のコーチに就任しますが、球のスピードが、指導している投手陣よりも早かったため、「村田が投げろ!」とヤジが飛んだほどです。)が、打撃練習をしている落合投手を見て、「調子悪いな。ボテボテの三塁ゴロばかり打って!どうした?」と声を掛けたところ、落合選手は、「ランナー三塁で、サードゴロを打って、1点を取る練習です。」と答えたそうです。普通、そのチャンスであれば、ヒット、最悪で犠牲フライを考えるのがセオリーです。私が推測するに、勝負を決める場面では、相手投手もヒットや犠牲フライを打ちやすい球は投げてきません。しかも、強打者の落合選手の打席の場合、相手チームの三塁手が後ろに守備位置を取るので、ボテボテのサードゴロで三塁ランナーがホームに生還し易くなります。そこで、その低い確率よりも、三塁ゴロを打てる(打たせる)球が来る確率の高さに重きを置いたということなのでしょう。つまり、4番打者として、打点を挙げることが自分の役割と考えたのです。この話を知ったとき、私は、さすが、目の付けどころが違うなと感心しました。
イチロー選手と川上哲治氏
現役当時のイチロー選手も、相手チームの内外野の守備位置を見て、わざとバットの芯を外して、バットの先端に当て、打球を弱めて外野の前に落としたり、逆に、バットの根元に当て、打球を詰まらせ、内野安打を狙ったりと、普通では思い付かないことを平然とやってのけました。そのことに対し、故人である川上哲治氏(現役時代は打撃の神様、巨人のV9時代の監督)は、「私には、思い付かない考えだ。彼に比べれば、私など及ばない。彼こそが一流だ。」とイチロー選手を讃えたそうです。イチロー選手も凄いですが、川上氏の偉大さを知りました。
創意と工夫を繰り返すべき
エピソードを交え、話が逸れましたが、色々なもの、色々な分野、色々な文化を取り入れる姿勢は必要だし、物事は色々な角度から見て判断することが肝要だと、私は言いたいのです。その中で、創意と工夫を繰り返し、失敗しても、もう一度考え、挑戦する精神が大切だと、私自身にも言い聞かせたくなりました。
今は、自分の長所がわからなくても、今、やるべきことはやっておこう
人間、一生勉強です。完成された人間も、完璧な人間もいません。皆、良いところ、悪いところがあります。自分の良いところを伸ばして、自分を社会の中で活かすことを考えるべきだと思います。社会や誰かの犠牲になり、自分を失くすのではなく、自分の力をどうしたら社会や周囲のために使えるのか?を求めるべきだと思います。中学生や高校生では、自分のもつ能力の良い部分を把握するのは、困難でしょう。今は、自分に眠る能力がわからないかもしれません。しかし、そうであっても、潜在能力は必ずあります。未来のためにそれを引き出す努力はしてください。今、目の前のやるべきことを考え、できることは、しっかりしてください。
努力の方向性さえ間違えなければ、大丈夫!
結果は、すぐには出ないことだってあります。結果をすぐに求めるのではなく、それを継続することの方がずっと大切です。努力の方向性だけ間違えなければ、やり方が間違っていても修正可能です。自分は、どうなりたいのか?を考えて、そこに向かって進む癖を付けてください。様々な視点から見て、様々な意見を聞き、それを判断材料として自分で決断して、自分の力を活かし、更に、余裕があれば、他人や周囲の短所ばかりを嘆くのではなく、それを魅力のひとつだと受け入れ、更に、長所をどうやって活かすのかにも目を配らせることができれば最高でしょう。人に対しても、自分に対しても、大らかさを持って接したいものです。